塞翁が馬

アイキャッチ用雑僧雑感
雑僧の雑感 仏暦2565年4月 前半 vol.83

「塞翁が馬」

 

 人生における幸、不幸は誰が決めるのか?それは他人ではなく自分自身の心であろう。いや、それとても定かではないのかもしれない。人の心は常に移ろいゆくから。ちょっと前まで幸せを感じていても、不幸にさいなまれることもある。逆もまた然りである。我が心さえままならぬから、世情などはなおわからないだろう。時々刻々と変化してゆく我が心、そして世界の情勢。今起きている事は果たして幸なのか、不幸なのか?人の幸、不幸は予測する事は叶わぬであろうし、世間もまた同様であろう。

故福之為禍 禍之為福 化不可極 深不可測也

『淮南子(えなんじ)』より

書き下しは

故に福の禍と為り 禍の福と為るは 化極むべからず 深測るべからざるなり

 その意味は、「故に、福が禍となり、禍が福となる。そうした物事の変化を見極める事は出来ないし、物事の奥深さを測る事が出来ない」である。なんだか『般若心経』の「色即是空、空即是色」に似ている気がする。これは「人間万事塞翁が馬」の故事である。「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」とか「一の裏は六」とかと同義で、物凄く簡潔にいえば、老人の逃げた馬が駿馬を連れて帰り、それに乗った息子が怪我をして戦に出なくて命が助かった。故に幸だと思っていた事が不幸となり、不幸と思っていた事が幸となる。サイコロのように、どの目が出るかは分からない、まさに「一の裏は六」なのである。人生の禍福は予想できないのかもしれない。


 

お知らせ一覧

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事