雑僧の雑感 仏暦2561年11月 後半 vol.2
「名月が欲しい、ネット社会の光と影」
「名月を とってくれろと 泣く子かな」by一茶。インスタ映えが世の趨勢を決す。しかーし、私は流されぬ、左右されぬ、上下東西またしかり。強き意志を持ち、ネット社会にもの申す。って、思ったが…。知らない間にホームページを立ち上げる。変節、変り身、自己保身?まさか、ネットの海に漕ぎ出だす事となろうとは、一体何処ぞの誰が思ふたか。お釈迦様でも気が付くまい…。
時はネット全盛期。欲しい欲しいと駄々をこね、泣き暮らしていたが何時の間に、手にした月は何の月?張りぼて、虚言、妄想か?しかれど手には輝ける、名月もどき、これは何?華々しくネットデビューを飾ってはみたけれど…。随分と良い寺に見える。所詮は虚飾なのか?してみると、ネット内の輝かしい情報はどうなのか?我が寺のみが張りぼてか?ネットは知の坩堝、だが知ると理解するは違う。仏教的に言えば知と信は違う。
ネットの情報が全てでは無い事は当たり前。良い情報、羨ましい情報だけが溢れかえる。有益性は否定しない。けれど、そこには輝かしい情報が、良い情報が、羨ましい情報だけが、名月のように画面を照らす。だって嫌な事は書かないから。まるで影など無いかのように…、それを鵜呑みにしちゃう、光は眩しい。それだけを見て一喜一憂、羨ましいと思ってない?みんなリア充、不幸なのは私だけ。そう思っちゃう、比べては落ち込む、だって羨ましいから。でも光は輝くばかりではない、影もつくるのだ。名月が欲しいならその影をも引き受ける、そんな覚悟も必要なのではないだろうか。
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