一蓮托生

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雑僧の雑感 仏暦2565年10月 後半 vol.96

「一蓮托生」

 

一蓮托生

この言葉を辞書で引くと二通りの意味が出てくる

一つは、死後共に極楽の蓮華に託して生まれる事

二つには、良くも悪くも、行動、運命を共にする事

 とある。日常的にはどちらかと言えば、二つ目の意味で使われる事が多いのではと思う。日常的と書いたが、普段使わないかも。というか、使っている場面に遭遇した事があるだろうかと、記憶を探っても思い当たらない。

 でも言葉としては意味も通じるし、多くの人が知る言葉だろう。ドラマやら小説で登場する言葉なのかもしれない。しかも悪い意味で使う場合が多い気がする。運命共同体的な意味合い。

 しかし、仏教語としてのこの言葉は、極楽浄土での再会を意味するのだ。一つ同じ蓮華に託して生まれる。南無阿弥陀仏と称えたのならば、この世で命終えるその時に、阿弥陀様がお迎えに来て下さり、極楽浄土へと往生、往き生まれさせて頂く。そして、極楽浄土に咲く蓮華の台(うてな)に登らせて頂くと説かれる。

 南無阿弥陀仏と称える者同士、例えこの世で離ればなれになったとしても、後の世は、何の煩いもない、苦しみもない、清らかな世界である極楽浄土に往生し、同じ蓮華の上で再会させて頂けるのである。これが一蓮托生。極楽浄土に咲く蓮の花に思いを馳せ、一つ同じ蓮華に託して生まれる。後の世まで行動や運命を共にするという言葉が転じて、二つ目の意味となったのであろう。しかし、この言葉のイメージは悪い。往生もそうだが、何故か仏教語は悪い意味へと変換される傾向がある。何故だろうか?


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