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なぜに鍵屋と言わぬ情なし

アイキャッチ用雑僧雑感
雑僧の雑感 仏暦25678月 前半 vol.139

「なぜに鍵屋と言わぬ情なし」

 

 橋の上 玉屋玉屋の声ばかり

なぜに鍵屋と 言わぬ情なし

 隅田川を地の人間は大川と呼ぶ。母校の校歌にも大川端と歌われる。隅田川花火大会の歴史は古く、享保18年の大川の川開きにまで遡るといわれる。大飢饉や疫病により亡くなられた方々の供養と厄災消除を祈念して、花火師六代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりと伝わる。八代将軍吉宗の特別の許可にて執り行われたとの説もある。

大川の川開き 隅田川花火大会の由来に関しては諸説あります

 いずれにせよ大川の花火は、江戸の昔より現在に至るまで、江戸の風物詩である。六代目鍵屋弥兵衛の番頭清七が暖簾分けして、玉屋市兵衛を名乗る。川開きでは上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担ったという。暖簾分けでありながら、「玉屋」は人気と技術が高く、「鍵屋」を上回り、江戸一と称されたという。火の神を守る花火師でありながら、玉屋市兵衛の家屋から失火、町を類焼したという。江戸の町は火災が多く、火事にたいする罪は重かった。天和の大火における八百屋お七の逸話はあまりにも有名。

八百屋お七と駒込吉祥寺の話は機会が有ればいずれ

 玉屋市兵衛は江戸所払いとなり、「玉屋」は廃業。僅か35年、その歴史は花火の如く一瞬の輝きであった。名実ともに江戸一と謳われ、江戸っ子に愛された「玉屋」。今なお「玉屋」のかけ声が花火大会の橋上に響く。

 因みに「鍵屋」は現存、現当主は十五代目である。伝統を重んじ、新たな試みを続ける「鍵屋」の取り組みは学ぶべきものが大きい。「鍵屋」故に情(錠)なしと言われるが、「鍵屋」抜きに江戸の花火を語る事は出来ない。


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