虚仮の一心
雑僧の雑感 仏暦2567年 10月後半 vol.183
「虚仮の一心」
思慮が浅く愚かな事を虚仮(こけ)という。仏教では真実ではない事を指す。見せかけだけで中身がない事を虚仮おどしともいう。虚仮の一心とは、愚かな者でも、一つの事に心を向け成し遂げようとする事をいう。また、その事により目的を達成出来る事をいう。一方で、愚か故に視野が狭くなり物事に固執してしまう事もある。愚か者でも一生懸命に取り組めば目的を達成する。どうやら、そんな単純な言葉ではどうやらないようである。
釈尊の弟子で、一心に掃除をして悟りを開いたと伝わる周利槃特(しゅりはんどく)尊者は、たいへん愚かであったという。愚かさ故に教団から追放されそうになった時、釈尊から「自分の愚かさを知っている者は、真の愚か者ではない。愚かな者とは、自分が賢いと思い込んでいる者である」と諭され、「塵を払わん、垢を除かん」これだけを念じて修行道場を掃除せよと説き示された。そして、一心に掃除をするなかに悟りの境地を得た。
虚仮の一念、岩をも通すとの言葉もある。愚かであったとしても、不器用であろうとも、一心に願い努力を重ねれば目的を達成する事が出来るのかもしれない。掃除という終わりの見えない行を修し、悟りを得た事に畏敬の念を抱く。その道のりは険しかったことだろう。法然上人は、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と、御往生間際に示された。六道流転、愚鈍の身である私たちの現状を受け入れ、その私たちに救いの手を差し伸べて下さる阿弥陀様の御本願を信じて、ただ南無阿弥陀仏と称えたい。
たとい一代の法をよくよく学すとも
一文不知の愚鈍の身になして
尼入道の無智のともがらと同じうして
智者のふるまいをせずして
ただ一向に念仏すべし
『一枚起請文』
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