文字にすると・・・
雑僧の雑感 仏暦2563年5月 前半 vol.37
「文字にすると・・・」
急速に進化するSNSメールは既に古いらしい
ついて行けぬ・・・
巷間には言葉が溢れかえる
言葉と言うよりも文字と言ったほうが良いのだろうか?
釈尊のお涅槃の翌年、お弟子達が集まり釈尊の教えを確認し合う集いが開かれた。「第一結集(だいいちけつじゅう)」と呼ばれる。500人が集い、釈尊からこのような教えを頂いたという事を話し合ったのだ。
文字にはしなかったらしい。何故か?釈尊の言葉は金言(きんげん)、聖なる言葉であるから文字には記せない。って言うか、文字にすると別解釈が生じるからなのか?
確かに文字は便利だし 広く伝える為には必須のアイテムだ
しかし、文字は読む人の主観が入る。全く同じ文章でも異なった意味となることがままある。文字を否定している訳ではない。小説などは、個々人の主観で物語を紡ぐ楽しさがある。客観的な世界観を植え付けられたなら、それは窮屈以外のなにものでもない。
大切な事は言葉にすべきだろう
発する言葉と共に、瞳の輝き、息遣い、仕草と言葉で想いは伝わるのだから。だから、文明の利器が発達し過ぎた現代に至っても口授相伝(くじゅそうでん)が残っているのだ。所謂口伝、口移しである。目と目を見て言葉にして伝える世界である。そこで初めて真の想いが伝わる。SNSもラインも良い、だがそれがコミュニケーションの全てではない。昨今、経典の一部をクローズアップして、というか言葉尻を捉えて、釈尊の真意を明らかする。そんな議論が流行している気がする。果たしてそこに真実の教えはあるのか?考える必要がある。
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