腰抜け武士の越す峠
雑僧の雑感 仏暦2563年6月 後半 vol.40
「腰抜け武士の越す峠」
希代の遊び人か?
勝れた指導者か?
英雄なのか?
違うのか?
英邁なのか?
暗愚なのか?
ラストサムライなんて言われたりもする
武装中立を目指したサムライ
幕末の頃 北越長岡の地でこんな落首が詠まれた
河井かわいと今朝まで想い、今じゃ愛想も継之助
長岡の遊郭付近で詠まれたらしい。逼迫した財政を立て直し、強い長岡藩を目指した継之助。さんざん遊んで、世話してやって、可愛い可愛いと想っていたが、いまじゃ愛想も尽き果てた・・・
藩政改革の手始めは遊郭廃止であったそう。怒る気持ちも十分にわかる。でも、憎みきれない想いも伝わる気がする。これこそが、河井継之助という武士の本質なのではなかろうか。
幕末の激流に、スイス・オーストリア・トルクメニスタン・リヒテンシュタイン並みの国家を目指す。ガトリング砲にアームストロング砲、フィールド銃等々。最新鋭の武装にて中立国を目指した。特にガトリング砲は最新鋭にして最強、値段はビックリする程高い。因に一門5,000両(約3億7千5百万円也)。
新政府軍vs奥羽列藩同盟
北越長岡藩は中立を表明 調停役を買って出た
・・・が
新政府軍との会談、小千谷(おじや)談判は僅か30分で決裂、小藩ゆえに足元を見るかの応対であったという。かくして北越戦争へ突入。兵力で圧倒する新政府軍に苦戦を強いた継之助、足に銃創を負い事は決す。長岡城は陥落し、継之助は会津へ落ちる。
八十里 腰抜け武士の 越す峠
八十里峠を越える際、こんな自嘲の句を残した。ラストサムライか、それとも長岡を滅ぼす原因を作った戦犯か。墳墓は幾度となく破却されたという。ともあれ、武士としての意地を貫いた生涯であった事は間違いない。そして私はこの人物が大好きだ。
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