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初代市川段四郎

アイキャッチ用雑僧雑感
雑僧の雑感 仏暦2566年7月 後半 vol.114

「初代市川段四郎」

 

※文中の敬称は省略させて頂きます

初代市川段四郎 1651~1717

初代市川助六→初代市川段四郎→初代市川團四郎

享保2年5月2日死去 享年67

 慶安4年(1651)に生を享け、初代市川團十郎の最古参の弟子にして、荒事、実事にすぐれ、元禄期に活躍。宝永5年(1708)に僧籍に入る。

上記デジタル版日本人人名大辞典より引用

 宝永4年には宝永地震が発生、その49日後には史上最大の富士山の大噴火が起こっている。正源寺の創建が寛永6年(1629)で、開基は伊奈忠重。伊奈忠順の祖父の家系にあたる。伊奈忠順は、宝永の大噴火の折に幕府の支援が行き届かない村々を救い、人々から尊崇され神格化された。他に永代橋架橋や深川の埋め立て、本所の堤防修築等に携わる。因みに永代橋は徳川綱吉の50歳を祝う事業として架けられた。そこには、徳川の世が永代にわたり栄えるとの意もあったのだろう。

 正源寺は、近年では関東大震災、東京大空襲で焼失しており、寺の歴史を紐解く資料は現存していない。初代市川段四郎の出家は、もしかすると宝永年間の災禍が原因だったのかもしれないし、その折に力を尽くした伊奈家所縁の正源寺にて仏門に入った可能性もある。

 もしかすると歴代住職の一人だったかもしれない

これは根拠の全くない推測

 初代市川助六、初代市川段四郎、初代市川團四郎。墓所に俗名市川團四郎とあるのはそのため。初代市川猿之助こと喜熨斗亀次郎は、後に二代目市川段四郎を襲名する。初代段四郎と二代目以降に血縁はない。澤瀉屋は猿之助と段四郎の名跡を交互に襲名してきた。これは特殊な例かもしれないし、澤瀉屋の特性といってもよいだろう。

二代目市川段四郎(初代市川猿之助)

初代段四郎供養碑建立

二代目市川猿之助(初代市川猿翁)

 関東大震災により破損の初代段四郎供養碑修復

四代目市川猿之助

関東大震災・東京大空襲で破損の初代段四郎墓所修復

 修復だけではない、大法要には必ず初代段四郎の追善供養塔婆を建立していたし、墓参は欠かす事がなかった。初代段四郎墓所は、二代目段四郎(初代猿之助)から現在まで喜熨斗家により守られてきた。これは血縁はなくとも、名跡を大切にしてきた証であろう。

 二代目段四郎からの想いを受け止めながら、初代段四郎の廻向はこれからも続ける。そして四代目市川段四郎夫妻の廻向も。四代目猿之助の事は、今後どのような事が起ころうとも、私は決して手のひらを反すような事はしない。世間にどのように思われようが。それがせめてもの恩返しだから。これは喜熨斗家に限った事ではない。当寺では、お世話になった方々の縁は大切にし、廻向をしてきている。著名人だから特別などという考えは全くない。

 今回の件で様々な情報が飛び交う。いろいろと言いたい事もあるが、その一つ一つに私が反論するのは筋が違うだろうと思う。もしも罪あらば法にてよってのみ裁かれるべきで、それ以上でも以下でもない。刑が確定されたならば受け入れて償うのは当たり前の事。法で決まった事は受け入れる。しかし推定無罪の原則及び、刑事被告人の更生は有罪判決を受けた時から開始される。との、法治国家の大前提は守られるべきである事を切に願う。

話がそれた…

初代市川段四郎墓所を守る立場として

今回の事で一つだけ言いたい

澤瀉屋は猿之助と段四郎を交互に襲名してきた

本流も傍流もない 全くのお門違い

四代目市川猿之助は中継などでは断じてない


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