お布施の値段
雑僧の雑感 仏暦2563年7月 後半 vol.42
「お布施の値段」
釈尊の弟子に舎利弗(しゃりほつ)という人がいる
智慧第一と称された方で 十大弟子の一人である
この舎利弗の 過去世における永い修行時代の出来事である
ある日、乞眼婆羅門(こつがんばらもん)、眼を集めるのが趣味といっては語弊があるが、人の眼を集めていた婆羅門がいた。
舎利弗はこの婆羅門に、「お前の眼が欲しい」と言われた。「布施」の修行であるから、喜んで眼をくり抜き婆羅門に差し出した。ところがその婆羅門、眼を受け取るや「臭い」と言って地面に投げ捨てたという。
舎利弗は当然怒った そりゃそうでしょ!
でも舎利弗はこの出来事により「布施」の修行が完成しなかったのだと説かれる。これまでの六十劫という永い時間の修行の全てが無に帰し、成仏出来なかったそうだ。
「布施」は 差し出す(施す)事が修行である。だから差し出した物に執着してはいけないのだと言う。どのように扱われても文句は言わない。
差し出した物に執着した舎利弗は「布施」の修行を完遂出来なかったと言う訳だ
「布施」は差し出す側の修行(気持ち)なのである
だから、施しを受けた者は有り難く頂く。乞眼婆羅門も又、思い違いをしていたのだろう。この話は、舎利弗の成仏を妨げる為に、悪魔が婆羅門に姿を変えて妨害したと伝わる。
この話は一体何を言いたいのか?
つまり、「布施」は出す側の気持ちを、受ける側が有り難く頂く。そこに、値段表的な物は存在しない。1円でも1億円でも一緒という事。差し出す側が、その行方に捉われてはいけないのと同じように、受ける側は、金額の多寡に捉われてはならない。だから、「お布施」の額は決まっていない。
以上は建て前 本音を言えば沢山欲しい
多いにこしたことは無い そりゃそうでしょ!
でも…、坊さんである以上、綺麗ごとと言われようが「布施」の信念を守りたい。差し出す側の修行を妨げたくない。受け取る側の修行を妨げたくない。
だから お布施の額を聞かないで…
聞かれても答えようがないから
せめて坊主の端くれでいさせて欲しい
注:「正源寺は安い」と巷間で言われていると小耳に挟んだ。
私は決して「安くて良い」とは言っていない。
「幾らでも結構です」を「安くて良い」と変換しないで欲しい、
それを言いふらさないで欲しい。
安い高いを論じる事自体が「布施」の理念に反するから。
だから「幾らでも結構です」なのです。
幾らであろうが功徳に差異は無いしこちらも態度を変える事はしない
救いの内容が変わる訳でもない
くれぐれも誤解無きように頼みます・・・
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