怒らない生き方をしたい
雑僧の雑感 仏暦2563年10月 後半 vol.48
「怒らない生き方がしたい」
道徳的とか 仏教的にと言う訳では無い
「怒り」は無駄なのだと思う
心が支配されるから
時間が勿体ないし するべき事を見失う
「怒り」はマイナスでしかない。そんな事を最近感じている。しかし一方で「怒り」はパワーだとも言う。仕事や生き方の原動力であるのも事実。でも、「怒り」をバネに飛び上がれる人は僅かなんだろうと思う。少なくとも私は無理。逆に目の前に穴を掘ってしまいそう。
しかも、相手に届かない「怒り」はハッキリ言って無駄の極みである。所謂陰口的な怒りである。私は聖人君子では無いから、無駄の「怒り」を爆発させる事もままある。その時に心は、「怒り」をぶつける相手に完全に支配されてしまう。
そう「怒る」時 その相手しか見えなくなるのだ
それは嫌だなー
たまに、面と向かって「怒り」と言う名の正論をぶつけてしまう事もある。正論故に相手も「怒る」。すると「怒り」の連鎖が起こる。
正論は決して正解では無い
正論は諸刃の刃
相手も傷つけるが自らをも傷つける
時間と労力、そして精神衛生上良くない。そして寿命をも縮めるとも言われる。
因みにだが 「怒る」と「叱る」は違う
この微妙な違いを見極めないとならない。…と、偉そうに書いているが、私がそのような生き方がしたいと言う事だ。限りある人生、出来れば無駄な時間と労力と、寿命をも縮めるかも知れぬ事に費やしたくは無い。…あっ、一応仏教でも「怒り」は身を亡ぼすと説かれている。三毒煩悩「貪瞋痴(とんじんち)」の瞋がそうだ。身を焼き尽くすと譬えられる程である。なので、くれぐれも慎みたい。と、取って付けてみた。
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