叩いてお金がでるのなら
雑僧の雑感 仏暦2564年7月 後半 vol.66
「叩いてお金がでるのなら」
梅が枝の手水鉢 叩いてお金が出るならば
時は源平 一の谷の合戦
箙(えびら)に梅の枝を挿して奮戦した 梶原源太景季
父から勘当された景季を支えるために 遊女となり「梅が枝」と名乗った 千鳥
叩いてお金がでるのなら
夫梶原源太影季の質に入れたる鎧を出すために たとえこの身は地獄に堕ちようとも
だんない だんない 大事ない
この手水鉢 無間の鐘になぞらえて
一般にルビは「むげん」とふられる事が多いが 仏教読みでは「むけん」である
遠州は掛川にある観音寺の鐘を撞くと、この世では富を得ることが出来るが、死後は「無間地獄(むけんじごく)」に堕ちるという伝承があった。地獄にも階層が有り、「無間地獄」はその名の通り、絶え間なく責め苦を受ける地獄であり、地獄の中では最も苦しいとされる最下層の地獄である。別名を「阿鼻地獄(あびじごく)」と言う。
「無間の鐘」 の伝説である
この「無間の鐘」、噂は諸国に広まり、鐘を撞きに来る人が押し寄せたと言う。さて、この「無間の鐘」実際に今あったなら、撞くかどうかである。悩ましい問題であろう。浄土教はこの世は苦しみの娑婆世界、厭い捨てるべき穢れた世界。この娑婆世界を捨てて、後世は極楽浄土という、仏様の楽土へ往き生まれる事を目指す教え。「無間の鐘」はその真逆である。
しかし、そうは言っても、この世で少しでも良い思いをしたい、辛く苦しいことが多いかもしれないけれども、一切合切を捨ててしまえるかと言えば、そうではない自分もいる。それは仕方がない、何故なら煩悩があるから。そんな煩悩にまみれたこの身であっても、この身このままでお念仏を称えたならば、後世は極楽浄土へ往き生まれる。阿弥陀様は、煩悩の心多き衆生を救う為に仏様と成られた。その願いを信じお念仏を称える事が大切なのだと思う。
この記事へのコメントはありません。