色即是空
雑僧の雑感 仏暦2566年5月 後半 vol.110
「色即是空」
色即是空 空即是色
仏教には「空」という考え方がある
言い方を変えれば諸行無常
「色」は形ある物や現象を表し、「空」とは文字通り、何もない状態を表す。すべての形あるものは実態が無く、実態が無いように思えるが存在する。何故なら事物は時々刻々と変化し続けているから。けれど大局的な見地に立てば存在する。ややこしいが、これが「空」という事である。
行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しく留まりたるためしなし
川の水は一時として同じでは無い。だから「空」なのだ。でも、川を見ればそこに川は存在する。だから「色」となる。つまり「色即是空、空即是色」となる。この「空」という考え方に「行く川の流れは」的なものと「縁起」によるものがある。ここに時計があるとする。しかし、これは本当に時計なのか?部品が何で、その部品の一つ一つの由来の全てが判り。誰の手によって作られ、どのような流通経路を辿って、今ここにある。その間の全てが判らなければ時計とは言えない。だから「空」なのだという。でも「空」かもしれないけれど、時計という物質は存在する。だから「色」なのだ。なんともややこしい。一体何故、このような考え方をするのか?それは、物事への捉われを無くす為である。言い換えれば執着を無くす、煩悩を消滅する為である。どうしても物事に捉われてしまうのが人情。それを超えた先に悟りの境地が開けると説かれる。中々難しい問題である。
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