江戸の範囲
雑僧の雑感 仏暦2566年8月 後半 vol.116
「江戸の範囲」
本所深川といえば、江戸の代名詞のようであるが、最初から江戸であった訳ではない。少なくとも両国橋架橋の年といわれる万治2年(1659)、もしくは寛文元年(1661)までは、下総の国であった。両国橋の名前の由来は武蔵国と下総国に架けられたからである。
江戸幕府は、防備の面から隅田川の架橋は千住大橋しか認めてこなかった。しかし明暦の大火の時に、橋がないために逃げ場を失った多くの人々が犠牲となった為、防災のために架橋を決断したといわれる。江戸の六割が焼土と化し、十万人もの尊い命が失われた。亡くなった人々の多くは、身元がわからなかったという。
時の将軍綱吉は、この大火の犠牲者を供養する為に隅田川の東岸に「万人塚」という塚を設けた。両国回向院の始まりである。
正式名称を 諸宗山回向院無縁寺 という
西岸には両国広小路と呼ばれる火除地がつくられた。やがてこの地には見世物小屋や飲食店が立ち並び、江戸一番の盛り場となる。地名としての「両国」は現在地とは異なり、広小路のあった西岸であり、東岸は「向両国」と呼ばれていた。明暦の大火で住む場所を失った人々は、本所や深川に住むようになる。深川は大火後に拡張された。幕府が正式に江戸の範囲を定めたのは文政元年(1818)。徳川家康江戸入府以来、実に220年の後の事である。「朱引内」とか「御府内」呼ばれる。これが江戸であるという。本所深川が江戸と定義されたのは何時の頃なのか?
朱引内、墨引内に本所深川は含まれている。諸々端折るが、推察すると、両国橋架橋以降ではあるが、かなり早い時期には江戸として定義されていたと思われる。
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