阿難尊者
雑僧の雑感 仏暦2567年2月 後半 vol.128
「阿難尊者」
如是我聞
かくの如くを我聞きき
経典の冒頭の定型句である
「私はこのように聞きました」と訳される。経典は釈尊の説法であるので、釈尊から聞いたとの意である。我とは多くの場合十大弟子の一人であり「多聞第一」と称された阿難(あなん)尊者をいう。
阿難尊者は釈尊の従兄弟とされ、25年の間、釈尊の身近に仕え、教えを一番多く聞き記憶に留めていたという。釈尊滅の後、仏弟子達によって、御教えを確認する第一結集(だいいちけつじゅう)が開かれた。座長である摩訶迦葉尊者は、阿羅漢果を得ていないとの理由により阿難尊者の参加を認めなかった。しかし、釈尊に常に随い御教えを一番多く聞き覚えていた阿難尊者の参加が求められていた事は想像に難くない。摩訶迦葉尊者のすすめで瞑想修行に励み、第一結集の朝に阿羅漢果を得たと伝わる。
美男子故、誘惑も多く女難を被る事が度々でありながら、志操堅固で修行に励む。しかし「定」と「慧」が定まらなかったという。因みに阿羅漢果と悟りは厳密には同義ではない。それは、その境地に入った者のみぞ知る。
釈尊が涅槃に入る時、阿難尊者に涅槃に入る旨を確認するが、止めることはしなかったという。その意が理解できなかったからとも、魔が入り込んだからともいわれる。釈尊が涅槃に入られてはじめて事の重大さに気付き、自己嫌悪と悲嘆のあまり気を失ったと伝わる。涅槃図ではその様子が画かれる。第一結集において阿難尊者は「如是我聞」と声高らかに、釈尊の御教えを述べたと伝わる。
そのお姿は気高く尊い
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