暴走する正義
雑僧の雑感 仏暦2562年8月 前半 vol.19
「暴走する正義」
正義の定義は曖昧だ。
それは国家によって、時代によって、社会、団体、会社、個々人etc、全部違う。正義は人の数だけ存在する。
だから、摺り合わせて共通の認識を持つことは中々難しい。
…でも、おそらく大多数の人々が同じ認識なのではなかろうかとも思う。現実には異なり、想像には同じ。
正義とは「正しくある事」
しかし、国と国や組織同士、そして国や組織と個人の正義は必ずしも一致しない。だから折り合いをつけながら或いは学校に行き、或いは会社に行く…。でも、どうしても納得できない事もある。そりゃそうでしょ。
意見の相違=正義の相違
論争結構、ディスカッション結構、激論結構。…殴り合いは?時と場合によるだろうが、控えた方が結構。従来、不本意ながらも、お互いが違いを認め合い共存してきた。
しかーし、ネットの出現で様相は一変。ネット社会では個人の正義を主張し易いし神にもなれる。あの画面の前では…、でもそれは、恐ろしい事に全世界と繋がっている。画面を通して見る世界は、
なんだかみんな下らぬ事にアクセクしてるような気になるのだろうか?
だから匿名で非難するのだろうか?
自分の正義に外れる事全部を否定するのだろうか?
世の中はそんなに下らないのだろうか?
自分だけが常に正しいのだろうか?
義は貫けば正、振りかざせば邪
善悪に関わらずそんな感じだろう。でも現実と仮想の区別がつかなくて、なんかふわふわして、神である自分の意に沿わない事を全否定して、やがて暴挙に出る。もはや何者でもない。血も涙もないところに正義なんてないし、語る資格もない。人を不幸にする、傷つける。そんな義は、邪であり身勝手でしかない。
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