心
雑僧の雑感 仏暦2564年9月 前半 vol.69
「心」
「心」とは何であろうか?
どうやらハッキリとした定義がないらしい
仏教では学派によって諸説あるが、一般的には精神や意志の総称を言い、物体とは別の物であるとの定義である。「戒」は心なのか物なのかなんていう議論は古来より今に至るまでされ続けている。仏教に限らず「心」とは何かを考えることは、人間の命題なのかもしれない。
アリストテレスは「胸」であると考え、ヒポクラテスは「脳」にあると考えたそうだ。一方で「心」とは個別の物であるとの考え方もあり、デカルトは「魂」であると考えた。そもそも、考えちゃ駄目だろうという意見が有ったり、「心」の定義は何とも難しい。
表面に見えないから裏であるともいう
「心」を「うら」と読む言い回しを下記に挙げる
心悲しい(うらがなしい)
心細し(うらぐわし)
心恋し(うらごいし) 心恋ふ(うらごう)
心もなし(うらもなし)
心若い(うらわかい)
心悲しいはなんとなく物悲しい様をいい、なんとも言えずに美しい様は心細しと言う。心恋し、心恋ふなんかは、何とも風流な読みだと思う。確かに表には見えないのかもしれない。見えていると思っているその物が、実は違ったりもするのかもしれない。
「心」といえば 夏目漱石の『こゝろ』
人間の持つ「心」の葛藤やエゴを深く考えさせられる一書である
何れにせよ、「心」には完全なる定義が存在しないのである。それこそ百人百様、考え方は様々であろう。でも確実に作用している事だけは確か。そして人間の本質である事も確かであろう。何処にあるかは議論の分かれる所であり、もしかしたら永遠に所在はハッキリしないかもしれない。でも人それぞれ、自分がしっくりと感じられる所に確かに「心」は有るのだろう。
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