五劫の擦り切れ
雑僧の雑感 仏暦2564年12月 前半 vol.75
「五劫の擦り切れ」
寿限無寿限無五劫の擦り切れ
ご存じ落語『寿限無』の冒頭である。「寿」は命という意味もある。「寿限無」とは命限りなし。生まれてくる子供に長生きをさせたい親心。近くの和尚さんに名づけを頼みに行き、長生きするような名前を全部付けてしまったという噺。では「五劫の擦り切れ」とは一体どんな意味なのだろうか?劫は時間の単位を表す。
一劫は、40里四方の岩山に、百年に一度天界から天人が舞い降りて、その羽衣で大岩を撫でる。又百年に一度舞い降りて撫でる。そうするとほんの僅かではあるけれど、岩がすり減る。これを果てしなく繰り返す。そして大岩が全部すり減って無くなっても終わらない程の永い時間が一劫である。その五倍が「五劫」である。
この時間は、阿弥陀様が全ての衆生を救う仏と成りたいと願われ、どうすれば救うことが出来るのかを考えに考えられた時間が「五劫」とお経に説かれる。阿弥陀様の考えられた時間「五劫思惟」という。この時間の長さを表すかのような阿弥陀様の御像がある。螺髪という仏様の髪の毛が伸びてアフロヘアみたくなった御像がそれである。そして大岩が擦り切れる、
五劫の擦り切れ
途轍もなく永い時間のである
五劫の間考えられ、48の誓いをおこされた阿弥陀様、その18番目に「南無阿弥陀仏」と称える者必ず極楽浄土へ救うと誓われた。そしてそれが出来なければ仏と成らない。そう誓われ、さらに永い間ご修行下さり、十劫の昔に仏と成られたとお経に説かれる。
48の誓いを本願という
阿弥陀様は本願を成就され、仏様と成られ、十劫の昔から私たちに「我が名を称えよ必ず救う」と常に呼びかけ続けくださっておられる。この私たちは、その事を知らず気づかずに六道輪廻を繰り返して来た。けれど、今、人として生まれ阿弥陀様の本願に出逢えた。今、南無阿弥陀仏と称え極楽往生を願う事こそが大切である。
この記事へのコメントはありません。