溢れる情報
雑僧の雑感 仏暦2566年11月 後半 vol.122
「溢れる情報」
最近の情報量の多さについて行けない。巷には情報が溢れかえる。その速さについて行けない事が多い。インターネットが当たり前となり、SNSが中心となる昨今、まるで秒単位で情報が入れ替わるかのようだ。その情報の波に乗れないばかりか、荒波に飲み込まれそうになる。
何が正しくて間違っているのか。これを瞬時に判別する事はなかなか難しい。時として見たくない情報も容赦なしに入ってくる。そして処理しきれない。まるで嵐の中で立ちすくむかのような感覚を覚える事がある。正確には吹き飛ばされているのかもしれない。それでも、個々人のありようなどお構いなしに、世間は移ろい行く。そして、情報の量が増えれば増えるほど、その時間的単位は短くなる。
刹那と言ってもよい程に
その刹那を生きる事は難しい。そもそも、人間の頭で理解出来る範疇を越えている気がする。物事は得心してはじめて身になるのだろう。故に一刹那、一刹那の情報について行けず。結果として風景や景色としか認識出来ないのではなかろうか。刹那とは時間の単位で10のマイナス18乗。因みに最も短い単位を涅槃寂静といい、その数は10のマイナス24乗といわれる。これは物理学的にいわれる最も短い時間とは異なる。
涅槃寂静は悟りの境地、故に悟りとは瞬間的なものの持続なのだろう。世に溢れる情報を如何に分別するのか。それは結局個々人の考えでしかない。そして、受け取りようは当然ながら異なる。自分の尺度で物事を見てしまう。そんな私たちに正確な情報の分別は難しい。
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