適当

雑僧の雑感 仏暦2568年9月 前半 vol.165
「適当」
適当と言う言葉には、「程よく当てはまる」の意と「雑でいい加減」との相反する意味がある。どちらかと言えば後者の意で使用される事の方が多いかもしれない。適当な商品、適当な場所、適当な人材、これらは前者であろう。ふさわしい商品、場所、人材等、条件に当てはまると言う事になる。昨今、料理のレシピ表記における「適量」に関して、明確な分量を表記して欲しいとの要望があると聞いた事がある。「大さじ何杯」とか「少々」も同じであろう。マニュアルは確かに大切である。と、同時に、臨機応変もまた必要なのかもしれない。この世に万人が満足する完璧なレシピは存在しない。個人でも、体調やその日の気分、天候等により求める味は微妙に変わる。持病の有無もそうだろう。さらには地域による差違もある。
料理だけではなく万人に適した物はこの世に存在しない。良い天気や悪い天気も同様であろう。良い天気と言って、思い浮かべる景色は人により異なる。世間の評価や価値観とて時と場合により異なる。価値や基準、良し悪しも時代により変遷する。そう考えると、この世に完璧な物は存在しないと言えるだろう。努力や精進を否定するつもりはない。物事に真剣に取り組み、努力を重ねる姿は美しい。しかし、完璧である事を求められる世の中で、それに雁字搦めになる事は息苦しい時もある。受容と寛容も必要だろう。自分にとっての適量を知る。身の丈を知る事も大切ではなかろうか。そして、時として真剣に物事に取り組む、時として臨機応変に対応する。適量に適当に日々を送る。そんな生き方をしてみたい。
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