不幸自慢をしてみても
雑僧の雑感 仏暦2564年1月 後半 vol.54
「不幸自慢をしてみても」
幸せと不幸せ
一体誰が決めるのか?
他人じゃない それは自分自身の心
のほほんと暮らしているように見える私だが、不幸自慢をしてみれば、結構沢山あったりもする。でも、不幸自慢をしても意味が無い。不幸な出来事を、幸せへのステップと捉える事が出来たならば、そんな事を思ってみたりもする。
辛い事があったなら
心に留めない 隠さない 自分に嘘をつかない
不幸自慢をして、他人に憐れんでもらおうなんてもっての外?ただ吐き出す事は大事。嫌な事があったなら、喧伝するのでは無く、大声でバカヤローと放り出す、心から手放す。そして一呼吸おけたなら、俯瞰して見る。大抵の事はたいした問題じゃないと気付くかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その時に対処法を講じる。
と さも自分が出来ているとばかりに
偉そうに書いて来たが
実は全然出来てないし 狼狽えもする
実際私はこれまでも、慌てふためいてもがいて来た。過去形じゃない。今なお俯瞰出来る境地には至れないのもまた事実。俯瞰というか、達観というか。それが出来たら良いなーと、何時も考えてはいるが、実際は難しい。だから辛いし、苦しいし、悲しいし、憤りもする、怒りもする。手放す事の出来ない重き荷を背負い続けて生きている。でも、その万分の一でも、捨てる事が出来たなら、その分だけでも軽くなる。これ以上背負わないようにすれば、今以上重くなりはしない。
重き荷物を背負っていれば 心もだんだん重くなる
重き荷物を手放して見れば 心もだんだん軽くなる
そんなこんなで日々生きる。お経に説かれる所の娑婆世界、厭い捨てるべき苦しみの世界の有様を、嫌という程思い知らされる。でも、不幸を自慢しない、手放し投げ捨てる。それが少しでも出来たなら、今よりちょっとは良くなるかもしれない
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